東京地方裁判所 昭和59年(ワ)10325号 判決 1989年1月31日
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
理由
【事 実】
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、二〇〇〇万円及びこれに対する昭和五九年九月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
(当事者)
1 被告は、住所地において、「前村医院」(以下「被告医院」という。)を営む、産婦人科の医師である。
(分娩介助契約の成立)
2 被告は、昭和五六年三月九日、原告との間で、原告が懐胎中の第三子(以下「本件胎児」という。)の分娩を介助する契約(以下「本件契約」という。)を締結した。
(本件分娩の経過等)
3(一) 原告は、昭和五五年一〇月一一日から被告医院への通院を始め、被告から、本件胎児の分娩(以下「本件分娩」という。)の予定日は、同五六年三月一九日と診断された。
(二) 原告は、右予定日の前日である同月一八日、被告医院に入院した。
(三) 原告にとつて出産は三度目の経験であり、過去二回の出産においても胎児は四〇〇〇グラム以上あつたため、被告は、本件胎児の出生時の体重が四〇〇〇グラム以上であることを予見しており、原告に対し、同月一九日、翌日の午前中に帝王切開をすると説明し、その準備をした。
(四) 本件分娩は、同月二〇日、午前〇時三〇分ころ開始したが、被告は、本件分娩において、帝王切開による方法(以下「帝王切開」という。)を選択せず、自然分娩による方法(以下「自然分娩」という。)を選択した。ところが、本件胎児の体重は、五二五〇グラムと大きく、児頭は、早期に母体から娩出したものの、肩から下の部分は、容易に娩出しなかつたため、被告は、吸引器を用いて、本件胎児を母体から娩出させた。
(五) 原告は、本件分娩により、子宮破裂、卵巣一部喪失及び子宮頚管・膣壁等裂傷の傷害を負つたうえ、右傷害の治療の際の輸血により、血清肝炎に罹患し、同年三月二〇日から同年四月二五日まで、東邦大学医学部付属大森病院に入院し、さらに、同月二六日から同五九年九月二一日まで、同病院に通院することを余儀無くされた。
(被告の債務不履行)
4 被告には、次のとおりの債務不履行責任がある。
(一) 本件胎児は、出生時にその体重が五二五〇グラムもある巨大児であつた。
出生時の体重が四〇〇〇グラム以上の胎児を巨大児というが、巨大児は、児頭・児体とも大きく、また、肩胛周囲が頭周囲より大きいことが多いため、巨大児の分娩は、一般の胎児に比較して、困難であり、分娩に伴う障害は、胎児が大きくなるほど大きくなる、と言われている。
特に、体重四五〇〇グラム以上の巨大児の場合、微弱陣痛、早期破水、臍帯脱出、異常定位などを来たして分娩は遷延し、時に子宮破裂を招くことがあり、胎児娩出時は高度の会陰裂傷を来たし、胎児娩出後は弛緩出血を起こし易く、肩胛の娩出困難のため鎖骨骨折をきたすことがあり、自然分娩の場合の胎児の死亡率は二九パーセントにものぼるといわれている。
(二) 被告は、本件胎児の出生時の体重が四〇〇〇グラム以上であることを予見していたのであるから、正確に右体重を測定して、その体重が五〇〇〇グラム以上であることを把握し、かつ、右の事実を把握した場合には、自然分娩に比較して、胎児及び母体に対する危険が少ない帝王切開を選択すべき義務があつたのに、右義務を怠り、正確に胎児の体重を測定することをせず、また、帝王切開を選択せず、自然分娩を選択した。
(三) 仮に、正確に本件胎児の出生時の体重を測定することができなかつたとしても、被告は、その体重が四〇〇〇グラム以上であることを予見していたのであるから、自然分娩と帝王切開のいずれの方法が胎児及び母体に対する危険が少ないかを比較検討して、危険が少ない分娩方法を選択すべき義務があるのに、右義務を怠り、漫然、自然分娩を選択した。
(原告の損害)
5 原告は、前記3(五)の受傷により精神的苦痛を受けたもので、これを慰謝するには、二〇〇〇万円をもつてするのが相当である。
6 よつて、原告は、被告に対し、本件契約の債務不履行に基づき、慰謝料二〇〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五九年九月二七日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実は、認める。
3 同3について
(一)(一)の事実のうち、原告の被告医院への通院開始時期は否認し、その余の事実は認める。原告が被告医院への通院を始めたのは、昭和五五年八月一一日である。
(二)(二)から(四)までの事実は認める。
(三)(五)の事実のうち、原告が本件分娩により、子宮頚管裂傷の傷害を負つたことは認め、子宮破裂、卵巣一部喪失・腟壁裂傷の傷害を負つたことは否認する。原告の受傷は正確には、子宮破裂ではなく、不全子宮破裂である。
また、本件胎児の体部が容易に娩出しなかつたのは、本件胎児が巨大児であつたためではなく、本件胎児の臍帯が右胎児の頚部に二回、左腕に一回、纏絡していたためである。
4 同4について
(一) 冒頭の主張は争う。
(二)(二)の事実のうち、被告が、本件胎児の出生時の体重が四〇〇〇グラム以上であることを予見していたこと、正確に本件胎児の体重を測定しなかつたこと、帝王切開を選択せず、自然分娩を選択したことはいずれも認め、義務違反があるとの主張は争う。
分娩前に、胎児の出生時の体重を正確に測定することは不可能であるし、仮に、右体重が五〇〇〇グラム以上であると把握しえたとしても、直ちに、帝王切開を選択する義務があるわけではない。
(三)(三)の事実のうち、被告が本件胎児の出生時の体重が四〇〇〇グラム以上であることを予見していたことは認めるが、その余の事実は否認し、義務違反があるとの主張は争う。
5 請求原因5の事実は争う。
三 被告の反論
1 被告は、昭和五六年三月一六日、児頭が固定されていないため、本件胎児の大きさと骨盤と児頭との不適合があるかどうかを確かめるために、原告に対し、X線計測法(Guthmann法による骨盤側面像撮影及び腹部単純(立位)撮影)による原告の産科的真結合線の測定を実施し、その結果と、子宮底及び腹囲の測定結果を総合して、本件胎児の出生時の体重を四〇〇〇グラム以上と予想したが、右測定結果によれば、児頭・骨盤不均衡はなく、昭和五一年九月の第一子、同五二年九月の第二子が、それぞれ出生時の体重が四〇〇〇グラム及び四一〇〇グラムであつたのにもかかわらず、何の障碍もなく自然分娩していることも考慮して、自然分娩が可能と判断した。
2 原告は、昭和五六年三月一八日被告医院に入院したが、陣痛誘発剤を投与しても陣痛が発来せず、翌一九日になつて陣痛が始まり、午後三時破水したにもかかわらず陣痛がなくなつてしまつたことから、同日午後一一時ころ、このままの状態が続くならば、翌日の午前中に帝王切開をすることとし、その準備をしたうえで、翌日の午前中までは、原告の状態を観察して、自然分娩と帝王切開のいずれを選択するか決することとしたが、同月二〇日午前〇時三〇分ころ、原告の陣痛が開始し、同四五分ころには、自然分娩により、児頭が娩出したので、自然分娩可能と判断し、右方法を続行することとした。
3 帝王切開は、胎児及び母体に対し、種々の障害を発生させる危険性を有する。
4 被告は、本件胎児が巨大児であることは予想していたものの、原告が過去に巨大児を二度にわたり自然分娩していたこと、X線計測法により児頭と骨盤との不均衡がなく、自然分娩可能と判断したこと及び帝王切開が危険性を有することを総合し、帝王切開の準備をしたうえ、原告の状態を観察して、自然分娩と帝王切開のいずれを選択するかを決することとし、自然分娩により、児頭が娩出したので、自然分娩可能と判断し、右方法を続行することとしたのである。したがつて、被告には、本件契約の債務不履行責任はない。
四 被告の反論に対する認否
1 被告の反論1の事実のうち、原告が過去二回の出産で四〇〇〇グラム以上の胎児を分娩したことは認め、被告の判断内容は不知。
2 同4の事実のうち、被告の判断内容は不知、債務不履行責任はないとの主張は争う。
第三 証拠《略》
【理 由】
一 請求原因1の事実(当事者)及び同2の事実(分娩介助契約の成立)は、当事者間に争いがない。
二1 請求原因3(一)のうち、原告の被告医院への通院開始時期を除くその余の事実、同3(二)から(四)までの事実、同3(五)のうち、原告が本件分娩により子宮頚管裂傷の傷害を負つたことは、当事者間に争いがない。
2 右争いのない事実と、《証拠略》を総合すれば、次の事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。
(一) 原告は、昭和五一年九月に第一子、同五二年九月に第二子を、いずれも被告の分娩介助により自然分娩したが、右第一、第二子は、出生時の体重四〇〇〇グラム及び四一〇〇グラムの巨大児であつた。
(二) 原告は、本件分娩のため、昭和五五年八月一一日から被告医院へ通院を開始し、被告は、同日、本件分娩の予定日は、同五六年三月一九日と診断した。
(三)(1) 被告は、出産予定日の三日前の昭和五六年三月一六日になつても、児頭が骨盤に固定されなかつたため、児頭・骨盤不均衡があるのではないかと考え、その有無を検査するため、同日、X線計測法(Guthmann法による骨盤側面像撮影及び腹部単純(立位)撮影)による原告の産科的真結合線の測定及び子宮底及び腹囲測定を実施した。(2)被告は、右測定の結果、原告の産科的真結合線は約一三・五センチメートル、子宮底は約四二・〇センチメートル、腹囲は約九六・〇センチメートルであつたので、本件胎児の出生時の体重を約四五〇〇グラムと予想した。被告は、日本人における婦人の産科的真結合線の平均は約一二センチメートルであるが、右測定結果は、これを上回るものであつたこと及び原告は前記(一)のように過去二回、何の障碍もなく巨大児を自然分娩していたことも考慮して、児頭・骨盤不均衡はなく、自然分娩が可能と判断した。
(四) 原告は、同月一八日、被告医院に入院し、被告から陣痛誘発剤の投与を受けたが、陣痛は発来しなかつた。
(五) 被告は、翌一九日午前六時ころから原告に対し、再度陣痛誘発剤を投与した結果、午前一一時ころから五分~一五分間隔で陣痛が発来し、午後三時ころには自然破水し、子宮口は二指開大の状態になつたが、午後五時三五分過ぎころ陣痛がなくなつてしまつた。
(六) 被告は、同日午後一一時ころ、本件胎児の頭部がまだ完全に骨盤に固定されていなかつたこと、本件分娩の予定日が経過しており、陣痛誘発剤を投与したにもかかわらず、本格的な陣痛が発来しなかつたことから、本件胎児は、第一、第二子に比べて大きく、また、臍帯纏絡の可能性もあると判断し、このままの状態が続くならば、翌日の午前中に帝王切開をすることとし、原告に対し、その旨を伝えたところ、同人もこれを承諾した。そこで、被告は、帝王切開の準備をしたうえで、翌日の午前中まで原告の状態を観察のうえ、自然分娩と帝王切開のいずれを選択するか決することとした。
(七) 同日午後一一時四五分ころ、突然、原告に陣痛が発来し、右陣痛は、翌二〇日午前〇時三〇分ころ、強く順調になり、同四五分ころには、自然分娩により児頭が娩出したので、被告は、自然分娩可能と判断し、自然分娩の方法を続行することとした。
(八) しかし、本件胎児の肩から下の部分が児頭に比較して大きかつたこと及び右胎児の頚部に二回、左腕に一回の臍帯纏絡があつたことから、容易に娩出しなかつた。
(九) 被告は、本件胎児が容易に娩出されず、強度の顔面チアノーゼを起こしたことから、同日午前一時一〇分ころ吸引器を用いて、本件胎児を娩出させた。
(一〇) 本件胎児は、出生時は、仮死状態であつたが、被告の蘇生術により蘇生した。
(一一) 被告は、同日一時二五分ころ、原告が、突然多量に出血したため、内診して頚管裂傷を発見して、これを縫合したが、数分後に再度出血し、血圧も低下したので、輸血をするとともに近所の大矢医師に診察を依頼し、子宮裂傷が発見され手術が必要と判断されたことから、原告を東邦大学医学部付属大森病院に転送した。
(一二) 原告は、東邦大学医学部付属大森病院において、子宮全摘手術を受け、生命を取り止めたが、本件分娩において、本件胎児の肩胛による子宮壁損傷により、子宮破裂、子宮頚管裂傷の傷害を負つたうえ、右傷害の治療の際の輸血により、血清肝炎に罹患し、昭和五六年三月二〇日から同年四月二五日まで、転送先の東邦大学医学部付属大森病院に入院し、いつたん退院したものの、同月五月一八日ころから同年七月ころまで同病院に再入院し、その後も、昭和五九年九月二一日ころまで同病院に通院することを余儀無くされた。
三 そこで、被告の債務不履行責任について検討する。
1 原告は、まず、「被告は、本件胎児の体重を正確に測定して、これが五〇〇〇グラム以上であることを把握し、帝王切開を選択すべき義務があるのにこれを怠つた。」旨主張する。
(一) 《証拠略》によれば、(1) 昭和五六年三月当時、産婦人科開業医においては、その医療水準からみて出生時の胎児の体重を分娩前に正確に測定することは極めて困難であり、せいぜい概算値を測定することができたに過ぎなかつたこと、(2) 帝王切開は母体側に妊娠中毒症、出血等による死亡事故並びに創の化膿、出血、癒着及び疼痛等の後遺症を生じさせ、また、胎児側に帝王切開症候群と称される呼吸障害、貧血等を発生させる危険性を有するから、自然分娩を選択するか、帝王切開を選択するかは、両方法を選択した場合の危険性を比較検討して決すべきものであり、単に、自然分娩を選択した場合に危険性があるというだけでは、医師において帝王切開を選択すべきであるとはいえず、また本件胎児の出生時の体重が五〇〇〇グラム以上と把握され、自然分娩を選択すれば、難産となることが予想されたとしても、直ちに、帝王切開を選択すべきものであるということはできないこと、(3) もつとも、児頭・母体不均衡がある場合には、自然分娩を選択した場合の危険性が帝王切開を選択した場合の危険性を上回るときには、帝王切開を選択すべきであるが、被告は、前記二2(三)記載のとおり、本件胎児には、児頭・母体不均衡がないと診断したこと、以上のとおり認めることができる。
(二) してみると、前記二で認定の事実関係の下では、被告が本件胎児の出生時の体重を、分娩前に正確に測定することは極めて困難であつたというべく、また、仮に右体重を五〇〇〇グラム以上と把握したとしても、直ちに帝王切開を選択すべき義務があつたとすることはできないから、被告には原告の主張するような義務違反があつたとすることはできない。
2 次に、原告は、「被告は、自然分娩と帝王切開のいずれの方法が胎児及び母体に対する危険が少ないかを比較検討して、危険の少ない分娩方法を選択すべき義務があるのに、右義務を怠り、漫然、自然分娩を選択した。」旨主張する。
《証拠略》によれば、児頭・骨盤不均衡の有無は、X線骨盤計測法により、骨盤像を撮影し、適宜、超音波診断法により、児頭大横径を測定したうえ、骨盤の形状等も考慮に入れて総合的に判断されるべきものであるが、昭和五六年当時の産婦人科開業医には、超音波診断法は、あまり普及しておらず、その使用法も一般的ではなく、右開業医がX線骨盤計測法(Guthmann法及び腹部単純(立位)撮影)により、児頭・骨盤不均衡の有無を判断することは昭和五六年当時の産婦人科開業医の医療水準からみて相当であつたことを認めうる。
そうして、被告は、前記二2で認定のように、本件分娩にあつては胎児及び母体の状態を総合的に判断し、帝王切開の準備をしたうえ、原告の状態を観察して、自然分娩と帝王切開のいずれを選択するか決することとし、自然分娩と帝王切開のいずれの方法が胎児及び母体に対する危険性が少ないか充分比較検討したうえで、自然分娩を選択したものと認めるべきであるから、原告の主張する、被告が漫然、自然分娩を選択したとする義務違反があるとすることはできない。
四 以上によれば、原告の請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないから、棄却することとし、訴訟費用の負担について、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 菅原晴郎 裁判官 一宮なほみ 裁判官 大野和明)